創造 の背景についての考え
先日 このブログにUPした『重要な問い』という詩。
人類の原子力発明と核の使用、または素晴らしい発明が武器開発に
変貌した、というのが背景の詩でした。
もっと直接的にすると、読む人の大部分に伝わることになるのだろうと
なんども考えていました。
原子力にしても、結果 武器製造につながる発明になってしまったという
偉大な発明にしても、それに関わった科学者や研究者は、大きな志や
人類の未来のためになるという純粋な想いを持っていたのだと。
それを高く上のでほうで指図していた人間がどうなのかはわかりませんが。
4年前の東北の大地震で爆発した東京電力の原子力発電所は、建設は
とても専門的とはいえない状況にあったとききました。
原発建屋の壁としてはありえないほどに、脆い造りだったとも。
考えていると最終的には、赦すのは私だが、もし赦すとするならば
赦されるのも私だ、というところに 私がゆきつくのです。
なぜなら、すべては私だからなのです。私は、すべてだから。
そんなところから、また背景について考えをめぐらせていました。
もし、私はすべてであり、すべては私であったなら。
私はわたしです。私はあなたです。私はこの蝶です。私はこの石です。
私はあの樹木です。私は川です。私は建物です。私はこのねずみです。
私は明日食卓にのぼる豚肉となるブタです。私は首を切られても走る鶏です。
私はあの空のしたのどこかで母のちぎれた腕を前に泣く少女です。
私は瓦礫の下から救われて悲しみと安堵の涙を流す少年です。
私は誕生日に施設の職員に祝われて微笑む老女です。
私は始めてのデートに胸を高鳴らせ眼鏡をはずす15歳の少女です。
私は人類の未来のためになる素晴らしい研究と発明に打ち込む研究者です。
私は追い詰められたすえに街の隅で銃で撃たれ作品を盗まれる作家です。
私は人間に毛皮はがされるために殴り殺され母親から飲んだばかりのお乳を
土の上に吐き出し絶命する大量の子アザラシのうちのひとつです。
私は人の最も美しい内なる宇宙を絵にする画家です。
私は飼い主に大好きだよありがとうと抱きしめられ喜びに満ちる三毛猫です。
私は核のためにウラン採掘の奴隷にさせられたオーストラリアの原住民男性です。
私はライオンと格闘させられる闘士でありそのライオンでもあります。
私はすべてです。すべては私です。
娘が詩を作っています
以前につくってこのブログに載せたもので
『ことりとにんぎょ』という詩があります
それは夢のようでありながら実は現実なようでもあります。
これは私の理想のようであり、真実のようでもあります。
ここに今書いてきたことも、私の想像の創造空間のようであり
それは魂の真実のようでもあります。
冬のはじまりに、それを告げるお三方が空の高いあたりを進んでくるのが
見えることは理想なのか想像なのか真実なのか
もしかしたらそれを誰でも感じられた時があったのではないか
それは「昔」や「以前」かもしれないし
「すぐ隣にある シーツをくぐったあたりにある次元」なのかもしれない。
私がつくるものの背景は いつもそんなふうかもしれないです。
そのままにしておいても、絶滅する生き物は多くあります。
また、人間が大量に搾取することや、環境を破壊することで
絶滅する種はかなりあります。
いつも考えています。
人間がもっとも絶滅するにあたいする種ではないだろうか、
いや、そうかどうかは人間が絶滅したら確認できないのではないか
もしじぶんが、反対の立場だったら どうか
本当に他種は人間のために生み出されたというのか
あやまれば赦されるのか 感謝すれば大量搾取は赦されるのか
すべては私であり 私はすべてであるなら どうなのか
創造の背景を考えてみたら、こんな感じでした・。*
・。*